真夏の罠 1
梅雨が開け強い陽射に気温もぐっと上がり蝉の鳴き声が五月蠅くなり始めた頃、アカデミーは夏休みに入る。
しかし、子供達が休みでも教師は休むわけにはいかない。
やらなければいけない仕事は山積みだし、アカデミー関係を含めた諸々の会議の他には鍛練を兼ねた研修もあり、時には長期の里外任務を受ける場合もある。
下手すると夏休み前よりも忙しい日があったりするのだ。
そんな忙しい毎日を送っていたイルカだったが、受付の夜間勤務を終えた今日の午後から明日にかけては久しぶりの休日だ。
「じゃあ、お先に」
「おお、お疲れ~」
交代で受付に入った同僚と挨拶を交わし、イルカはドアを開けて廊下に出る。
欠伸を噛み殺しながら裏口に向かって歩いていると、アカデミーの建物が窓から見えた。
「あれ?」
何気なく見上げていたイルカは立ち止まって目を凝らす。
3階の教室の窓が開いおり、白いカーテンが風でゆらゆらと揺れているのが確認出来た。
夏休みの間、アカデミーは職員室以外に人の出入りはないはずだ。職員の誰かとも考えられたが、真夏日が続くこの気候ではエアコンのない教室へわざわざ出向く奇特な人間などいないだろう。
見回りの者がたまたま開けただけかもしれない。だが、不審者だったらことだ。過去にも人気がないのをいいことに若いカップルが忍び込もうとしたことがあってちょっとした騒動になったと聞く。
無視するわけにはいかず、イルカは踵を返してアカデミーの建物へ向かった。
ガラッと教室のドアを開けると、途端に蝉の鳴き声がスコールのように降り注いでイルカを襲う。
「うわっ、うるせぇー」
聞いてるだけで不快指数が上がる気がする。夜勤明けなので余計にきつい。
足を踏み入れると一瞬だけ蝉の鳴き声が止み、開け放たれた窓から風がそよいで頬を撫でて行く。温い風だが汗ばんだ肌には心地良い。しかし、再び始まった蝉の大合唱に辟易してイルカは早々に窓を閉めることにした。
教室には誰もいなかった。
念のため、ぐるりと教室内を回り侵入の痕跡がないかを調べる。何の異常もないことを確認して、見回りの者が空気の入れ替えをしてそのままにしたのだろうと結論付けた。
窓を閉めて鍵をかけると、蝉の声は微かに聞こえる程度に変わる。
外界から遮断された教室はがらんとしていて何処かよそよそしい。いつもの喧騒が嘘のようだ。
賑やかな子供達で溢れていた教室に、今はイルカ一人。
「何か、変な感じだな」
苦笑を洩らしてイルカはカーテンに手を伸ばした。
「隙だらけですよー」
「え?」
突然、真後ろから掛けられた声にイルカはビクリと肩を揺らす。
振り返ろうとするよりも先に、イルカの背後から腕が伸びて窓ガラスにトンと手をついた。長く真っ直ぐな指はとても白くて綺麗だったが、男のものであることは誰の目から見ても明らかだ。それにその白い手に嵌めた手甲には見覚えがあった。
「カカシ、先生?」
「はい。せいかーい」
首を捻って名を呼ぶと、暢気な声が返って来た。
いつから居たのか、全く気配を感じなかった。
横から覗き込んだカカシがにこりと微笑む。
身体を反転させようにも、背中にカカシの腕が当たってそれもままならない。酷く緊張しているのが自分でも分かった。
「あの…どうして、ここに?」
もしかしたら、窓を開けたのはカカシだろうか?
そう問えばあっさりと肯定される。
「そうです。罠を張ってみました」
「罠って、何で…」
「ちょっと賭けをしてみたんです」
「はあ?賭け?」
「そう。簡単な賭けをね」
トン、とカカシのもう片方の手が窓ガラスに張り付き、みしりと音を立てる。
気が付くとイルカの身体は、カカシの両腕で囲まれてしまっていた。
「窓に気付いて…アナタがここに来たら俺の勝ち、来なかったら俺の負け」
ね、簡単でしょ?と言ってカカシは小首を傾げて微笑んだ。
*****
「…あの?…カカシ先生?」
賭けとはどういうことだろうか。勝ったら何かあるのだろうか。
色々と問い掛けたいことは沢山あったが、イルカはどれも聞けずに縮こまっていた。
カカシの両腕は未だにイルカの身体を囲ったままで、気の所為かもしれないが先程よりも顔が近い。
身動きが出来ないまま、ちらりと窺ったカカシの表情は穏やかで、受付で見るものと変わりないはずなのに、イルカを覗き込む瞳はいつもと何かが違っていた。
怖いと思った。肉食獣に追い詰められた草食動物の気持ちが今なら分かる。
「イルカ先生」
耳元で囁かれ、ビクンと身体が跳ねる。
腰が砕けてしまいそうな美声を間近で聞かされ、恐怖心とはまた別の感覚にイルカは居てもたってもいられなくなる。
今日のカカシはおかし過ぎる。いや、おかしいのは自分の方かもしれない。カカシの体温を間近に感じて、イルカの緊張はピークに達した。
「あのっ!」
カカシの腕から逃れようと身体を捩った拍子に机にぶつかり、倒れ込んだイルカは腰骨の辺りをしたたかに打って痛みに呻く。
「いっつ~…」
「ああ…イルカ先生、大丈夫ですか?」
掛けられるカカシの声は酷く優しい。それが余計にイルカをいたたまれなくさせた。
両腕で身体を囲われた以外にカカシから直接何かをされたわけでもない。なのにみっともなくうろたえて忍にあるまじき失態を晒してしまった。
体温が上がり、滲み出た汗で背中に張り付いたシャツがじっとりと重く感じた。
過剰に反応し過ぎだ。羞恥で赤くなった頬を隠すようにイルカは顔を伏せる。
「立てますか?」
カカシの白い手がイルカの腰に回り、イルカはぎょっとして顔を上げて振り向いた。
「だ、大丈夫です!」
慌てて体制を整えようとしたイルカだったが、それをカカシが遮る。
「ね、今日はもう終わりですよね?」
「え…?あ、あの…、ひゃっ!」
ぐっと腰を持ち上げられ、イルカはバランスを崩して思わずカカシの腕に縋る。カカシはそのままイルカを抱き寄せると掌でイルカの背を支える。
「カ、カカシ先生!」
「ん?何?」
「あの!は…、離して貰えませんか?」
真正面からカカシの顔を見てしまい、イルカは益々焦ってしまう。いつの間にかカカシの口布が下され、端正な顔が晒されていたのだ。
耳元にカカシの息がかかって、背筋にぞわりと何かが駆け上る。いくらなんでも助け起こすにしては密着し過ぎだ。
男同士だというのに先程から変に意識してしまっている自分が恥ずかしい。カカシだっておかしく思っているだろう。そうだと思いたかった。
イルカは距離をとるためカカシの胸に手を置いてぐっと力を込める。カカシの腕は拍子抜けするほど簡単に外れ、そのことにイルカはホッと安堵の息を吐く。
「すごい汗。暑いですか?」
屈みこんだカカシがイルカのこめかみから流れ落ちた汗の滴を指で払う。
「あっ、ま…、窓が、閉め切ってあるからっ」
腕は離れたのに距離は近いままだ。
慌てて袖口で汗を拭い、一歩後ろに下がると背中が窓ガラスに当たった。
「……っ」
「俺が、怖い?」
「あっ」
伸ばされたカカシの指先がイルカの下唇をなぞり、硬直して動けないでいるイルカの耳朶にカカシの歯が触れる。甘噛みされたのだと気付くのに数秒の時間を要した。
「っ、カカシ先生…っ」
仰け反ろうにも後ろは窓で顔を背けることしか出来ない。
何をするんですか、と言い掛けて結局それは言葉にはならなかった。
カカシの顔が近付き、噛みつくように口を塞がれ、思わずきつく目を閉じた。
ぬるりとしたものがイルカの口内に入り込み、縦横無尽に蠢きながら縮こまった舌に絡みつく。
口内を蹂躙するものがカカシの舌だと理解出来ても、イルカには抗う術がなかった。
角度を変えて何度も貪られ、いつしかイルカはカカシに応えるように舌を差し出していた。
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- 2009/08/03 (月) 13:34
- 短編