真夏のミステリー
からりと晴れたその日の午後、受付は報告者もまばらで比較的のんびりとした空気に包まれていた。
ほどよく温度調整されたエアコンのお陰で室内は外に比べると天国のようだ。
「ふわ…っ」
思わず欠伸が出てしまったのもご愛嬌。
忙しければ報告書を捌くことに集中して眠気も忘れていられたろうが、こうも暇だとうっかり眠ってしまいそうだ。
ここ最近続いている寝不足が祟って、油断すると瞼がくっつきそうになる。
「イルカ先生、眠そうですね」
はっとして顔を上げると目の前に片目を細めたカカシが立っていた。
一瞬だけ意識が落ちていたようだ。
「あっ、すみません!みっともないところを…」
羞恥のあまり体温が一気に急上昇する。よりによって上忍のカカシの前で寝てしまうなんて、気が弛んでいると詰られても仕方のないことだ。
「いえいえ、お疲れのようですね。仕事、忙しいんですか?」
「いえ、ここ最近、ちょっと寝不足で」
「寝不足?ああ、イルカ先生んち、エアコン壊れてるんでしたよね」
不思議そうに首を傾げた後でカカシは思い出したかのようにイルカのエアコン事情を話した。
「ええ、そうなんです」
イルカの自宅にあるエアコンは3年前に結婚した先輩中忍から譲り受けた代物なので、いつ壊れてもおかしくなかったのだが、つい一週間ほど前にプスンという音を最後に動かなくなった。その上修理に出しても2週間かかるという連絡を店から貰ったばかりなので、いっそのこと新しいエアコンを買おうかと検討中だった。
「あれ?」
ふとイルカの脳裏に疑問が浮かぶ。
「壊れたこと話しましたっけ?」
「ええ…まあ…。暑くて眠れないんですか?」
「いえ、そういう訳でもないんです。今年の夏は涼しいから、窓を開けておけば風も入ってきますし…」
問題は一旦寝入った後で起こるのだ。
「睡眠障害なら病院で薬を処方して貰った方がいいですよ。寝不足も続けば体調を崩してしまいますからね」
カカシの言葉の中に微かに引っ掛かるものがあったが、心配そうな顔で身体を労るよう言われては恐縮するしかない。
「ありがとうございます。でも、睡眠障害というわけではないんですよ」
「じゃあ、他に何か理由でも?」
鼻の頭の傷を指で擦りながら、笑って報告書を受け取ると、ずいっと身を乗り出したカカシが真剣な面持ちでイルカを見詰める。そのカカシの瞳が常にないぐらいギラギラとしたものだったので、何故だかイルカは危機感を覚えた。
仰け反りながらも「ええ、まあ…」と曖昧に頷けば、眉を吊り上げたカカシが鼻息荒く何が理由かと問い詰めて来た。
「いえ、大したことじゃないし…」
言葉を濁しながらイルカはどうしたものかと頭を悩ませる。
カカシに話しても良いものか正直判断に困っていた。既に何人かの同僚に相談していたが、皆それは夢だろうと言って取り合わなかったからだ。
「何を言ってるんですか!もし、それが何かの予調だったらどうするんですか!」
「ええ~。大袈裟ですよ~」
報告書を持った忍がちらほらと増えて来たので笑ってこの話をお終いにしようとしたが、カカシはイルカの肩を掴んで食い下がる。視線が二人に集まり出して居心地が非常に悪い。
「あの、カカシ先生…」
「はい。何でも言って下さい!」
「えっと…」
「何ですか?」
言い淀んでいると、焦れたカカシが更に詰め寄って来る。
特に隠すようなものでもないし、聞く体勢になっているカカシをこのまま拒むのも逆に失礼かもしれないと思い直し、イルカはここ最近の寝不足の原因を話すことにした。
「実はですね…」
「はい!」
「近い。顔近いです。カカシさん!」
「あ、すいません。つい興奮しちゃって」
ふうふうと息を吐き出しながらカカシが少しだけ身を引く。
飄々として常に沈着冷静なイメージのあるカカシだったが、結構好奇心旺盛なんだなぁと、まだこの時のイルカは暢気にそんなことを考えていた。
「あの…実は俺、このところ毎晩金縛りにあうんです」
「金縛り、ですか?」
きょとんとした顔でイルカを見下ろすカカシに、その時の状況を説明した。
「眠っていると身体にずしっと重みがかかって動けなくなるんです」
初めて金縛りにあったのは、まだエアコンが壊れる前の梅雨入りしたばかりの頃のことだった。
雨が降っており、湿度が高かったのでイルカはエアコンのタイマーをセットして眠っていた。
カチッと小さな音がしてタイマーが切れたのを夢現の状態でイルカは確認して、ゆるやかに意識が眠りの縁に沈みかけたその時、ズン、と全身が押し潰されるような圧迫感にイルカは声もなく喘ぐ。
身体を捩ろうにも指一本動かすことが出来ない。冷や汗をかきながらイルカは瞼を抉じ開け、圧し掛かるもの確認しようと目を凝らした。
「ひっ…」
それを見た瞬間、イルカは恐怖のあまり身を竦めることとなった。
人型をした白い影が、イルカの上に圧し掛かっていたのだ。
顔も身体の輪郭も、すべてがぼんやりとしていて誰であるのか性別さえも判別が出来ない。
暗い眼窩がイルカを見下ろしている。
振り払おうにも身体は金縛りにあったままで、白い影がイルカの身体に触れても息をひそめて耐えるしかなかった。
耳元から白い影の荒い息遣いが聞こえ、青臭いような生臭いような匂いが鼻孔を擽る。
どれぐらいの時が経ったのか、もしかしたらほんの数分の出来ごとだったのかもしれない。
動かなかった身体が急に軽くなる。ほっと安堵の息を吐いてイルカは慌てて身を起こすが、既に白い影は跡形もなく消えていた。
「それが、ここ最近じゃあ毎日のように続いてて…」
幽霊なんている訳がないと否定的だったイルカも、流石に気味が悪くて神社からお守りを貰ってくるほど追いつめられていた。
「…カカシさんはこれ、どう思いますか?」
黙って聞いているカカシの顔をイルカは恐る恐る見上げる。
どうせ夢だと言われるだろうか。
幽霊だと断言されても困るが、気の所為だと切り捨てられるのも悲しいものがある。
しかし、カカシの反応はイルカの想像を遥か斜めに裏切るものだった。
「なーんだ。イルカ先生、気がついてたんですねー」
「………は?」
「まあ、先生も中忍ですもんね。気付かない方がおかしか」
顎に手をやりうんうん、と頷くカカシの顔をイルカは穴が開くほどまじまじと見詰めた。
「あ、あの…カカシさん?」
何を言っているのか問い質したい。だが、聞いた後で冷静でいられる自信がない。
「ごめ~んね。それ、俺です」
「え?」
「その白い影、俺なんです」
「はあ?!」
イルカの叫びに驚いた訳ではないだろうが、隣の席の同僚がぎょっとした顔でこちらを見た。
「もうね、任務任務で心がささくれ立っちゃってね~。イルカ先生の寝顔で癒して貰ってたんですよね~」
「え?ええええええっ!!」
「起しちゃ悪いと思って幻術を使ったんですけど、それが逆にまずかったみたいですねー」
明るく能天気な様子で語られる事実にイルカは開いた口が塞がらない。
「あ、でも安心して下さい。変なことはしてませんから」
にこりと唯一晒している右目を弓なりにしてカカシが更に言葉を続ける。
「おかずにはしちゃったけどね」
てへっ、と可愛らしく小首を傾げてカカシが爆弾を投下した。
「な、な、ななな…」
「あれ?どうしました?具合でも悪いんですか?」
唇を震わせ、顔色をなくしたイルカの様子に、カカシが心配そうに眉を寄せて覗き込む。
「…この…」
「ん?」
「この、腐れ上忍がぁぁぁ~~~っっ!!」
「ぐふっっ」
こうして寝苦しかったイルカの夏は、変態上忍に右ストレートを食らわすことで幕を閉じたのだった。
終
- 2009/08/30 (日) 21:48
- 短編