2013ペーパー用小話
【はやにえ】
ぽつぽつと灯りがともされた薄暗い廊下を進んでいくと、突き当たりに大きな引き戸が見えた。取っ手に指先を掛けて横に滑らせば、すらりとそれは簡単に開く。廊下はそこから右に曲がって続いており、イルカは何かに導かれるように足を進めた。
長く続く廊下の左側は庭に面しており、右側は幾つもの座敷が並んでいるようだった。障子はぴたりと閉ざされていたが、座敷の中は明るく大勢の人のざわめきが聞こえる。酒宴でも開かれているのだろう。給仕をする女中らしき影が、座する人影の合間を動き回っているのがうかがい知れる。
きしきしと軋む廊下を進み、ふと柱を見上げれば見覚えのある傷がついている。
イルカが五つの頃から一年経つごとにつけていた丈比べの傷だ。隣に並ぶイルカの背丈より高い位置の傷が誰のものだったかは思い出せない。
奇妙な心地になり、周囲を見渡す。
右手の座敷は未だに賑わっているが、左側の庭はしんと静まり返っている。宵闇は疾うに過ぎて辺りは暗闇に覆われていた。
ああ、これは夢なんだな。とイルカはふいに自覚する。
何故ならイルカは既に成人していたが、今の自分は幼い子供の姿をしていたからだ。
小さな手のひらと背丈から察するに、まだ忍術アカデミーに入るか入らないかの年頃だ。
足を止め、廊下に腰を下ろして庭を眺める。
広い庭には紅葉が植わり、見事な枝ぶりを見せている。昼間の姿もさぞかし壮観であろう。しかし、灯篭の灯りでぼんやりと浮かび上がる紅葉の姿は酷く幻想的で、イルカは引き寄せられるように庭へ足を踏み入れた。
奥へと進めば、庭の真ん中に幾つもの松明が焚かれているのが見えた。その先には紅葉を背後に従えた能舞台があった。本来なら松の木が描かれている鏡板は、何故だか紅葉の絵になっている。能に詳しくないイルカでさえ奇妙に思ったが、夢ならではの光景なのだろうと深く考えなかった。
舞台の前には既に黒い人だかりが出来ている。イルカは少し離れた場所で、そっと様子を窺うことにした。
わっと歓声が上がり、橋懸りと呼ばれる渡り廊下から派手な小袖を着た少年が姿を現す。
松明の灯りが揺らめき、少年がひらひらと舞い始める。美しい所作の舞だ。彼の表情は遠目で良く見えなかったが、肌の色は灯りのせいなのか蒼白に見えた。いつの間にかイルカの周囲には人々が集まり、やんやと少年に向かって囃し立てている。倍以上もある身の丈の男達に囲まれ、小柄なイルカは途端に身動きが出来なくなってしまった。
(どうしよう…)
途方に暮れて頭上を見上げると、舞を見ていたはずの男達の視線がイルカに集まっていた。
赤く血走った眼が品定めするかのようにイルカの全身を眺めている。いつからイルカを見ていたのだろうか。ぞろりと背筋を嫌なものが這い上り、イルカは後退ろうとして何かに阻まれる。
『坊主。何処から来た』
しわがれた声が耳元で聞こえて凍り付く。
生臭い息が首筋にかかり、イルカは咄嗟に身を捩って隙間から逃げ出そうとした。だが、太く逞しい腕がそれを遮る。イルカの細い身体はいとも容易く捕われ、掬いあげられた。
「やめろ!離せ!」
手足をばたつかせたが、男の身体はびくともしない。
『にえだ!はやにえだ!』
周囲から『はやにえ』という言葉が聞こえて、イルカはぎょっとして肝を冷やす。モズのはやにえといえば有名だが、この場合は初物の供物のことを指すのだろう。所謂、生け贄というやつだ。
そこで漸くイルカは周囲の男達がヒトではないことに気付く。人らしき姿を模ってはいるが、大半は異形の者だ。夢だと分かっていても、怖ろしい事に変わりはない。
頭上高く持ち上げられたイルカの身体へ幾つもの手が伸びてくる。方々から手と足を掴まれ、このままでは身体が引き裂かれてしまうと怯えた一瞬後、拘束が解けて身体がふわりと浮いた。
あ、と思った時には地面に転がり落ちたが、夢だからか痛みは感じなかった。
どすっ。
「ひゃっ」
鈍い音を立てて目の前に太い腕が落ちて来た。イルカを掴んでいた男の腕だろう。鋭利な刃物で切り落とされたのか、生々しい切断面は人の技とは思えないくらい綺麗なものだった。
「こっち!」
「え?」
呆然と眺めていたイルカの腕を白い手が掴んで引っ張り上げる。金糸の小袖は舞台で舞っていた少年のものだ。
「逃げるよ」
驚いて顔を上げたイルカの腕をしっかりと握って少年は走り出した。
まろびながらもイルカは駆ける少年の後を必死になって追いかける。
背後から二人を追う大勢の足音が聞こえたが、怖ろしくて振り向くことが出来ない。
「君は誰?」
少年は彼らの仲間ではないのか。何処へ逃げると言うのか。
「大丈夫。おれはアンタの味方だ」
長い銀色の髪を靡かせ少年が応える。
イルカは暗闇の中を腕を引かれて駆け抜けた。どれくらい進んだろうか。息を切らせて前を見ると、古びた扉がぽつんと立っていた。
「あそこから出られる」
そう叫び、少年はイルカの身体をぐいっと引き寄せ抱きかかえると、扉を大きく開いてそこに放り投げた。
「あ!」
扉の向こうは真っ暗で何も見えない。
ゆっくりと落ちて行くのを感じながら、イルカは戸口に残った少年へ届く訳もないのに右腕を伸ばす。
「待って!君は!?」
「おれも後から必ず行く」
だから安心して。
眼を細めて答える少年の顔は、鋭い牙を持つ獣のような容貌をしていた。
暗がりの中でふわりと意識が戻る。目を開けると素っ気無い板張りの天井が見えた。
イルカが暮らす安アパートの見慣れた天井だ。
「夢…」
ぽつりと呟いた声は酷く沈んで聴こえた。
柱にあった傷はイルカの両親が存命だった頃に住んでいた家の記憶だろう。酒宴が行われていた座敷と紅葉の庭は、三代目の屋敷のようであった。もちろん屋敷の庭はあれほど広くもないし、能舞台など有るわけもない。
何のためにあのような夢を見たのか考えても分からなかった。幼い頃に能を見た記憶だってないのだ。
『はやにえ』という言葉が脳裏にこびりついて離れない。只の夢と処理するには生々しく。何処か空恐ろしい。
そうだ。あの少年は無事だったのだろうか。
小さなイルカの手を引いて一緒に逃げてくれたあの獣の少年。彼の行為は彼奴にとっては裏切りだろう。夢の中の話だというのに、不安になってイルカは胸元をぎゅっと握り締めた。
どれくらいそうしていただろうか。コツン、と窓を叩く音が聞こえて我に返る。
カーテンの向こう側に人型の影が映っていた。慌てて窓へ駆け寄り、閉じていたカーテンを大きく開け放つ。
上弦の月を背にして、血に染まった白い獣が立っていた。
コツリと再び窓を叩かれ、急いで鍵を開ける。
「………っ」
口を開けたが言葉にならない。はくりと息を吐いてイルカは獣を見詰める。獣は鉤爪のついた指先で朱色の紐を解き、ゆっくりと仮面を外す。月明かりでそれは蒼白く輝いていた。
そうか。少年の顔も仮面だったのか、と今更ながらに気付く。
夢よりも逞しくなった腕が伸ばされ、イルカの背を抱いた。
「来たよ」
低い声で青年の姿になった獣が囁く。脳の奥がじんと痺れるような響きだ。
まるでそれが自然なことのように唇が重なる。柔らかな唇を受け止め、イルカはこれも夢だろうかと考え、そしてかぶりを振る。
触れる男の肌は温かく、血の匂いは本物だ。
「アンタ、いい匂いがするね」
奴らが欲しがるはずだ。
嬉しげに答える男の左目は、夢では気付かなかったが血で染まったかのように赤い。
(いや、これはきっと紅葉の色だ)
そっと縦に入った古傷に触れると、痛くはないよ、と言って微笑む。
「…名前を聞いても?」
腕を取られて再び唇が重なる。吐息と共に告げられた名前をイルカは心に刻みつけた。
「ねえ、いい?」
熱っぽい眼差しを向けられ、イルカは己の体温が上がるのを感じた。
何の誘いかは訊ねなかった。
拒絶もしない。
(俺は、このヒトの贄だ)
手を引かれ、闇の中を駆け抜けた時から、イルカはこの白い獣の『はやにえ』になることを選んだのだ。
あれが現実に起こったことなのか。はたまた夢の世界に紛れ込んでのことなのかは分からない。分かっているのは彼もイルカも此処に存在していると言うことだ。
それとも、今もまだイルカは夢の中に囚われたままなのだろうか。
反らされた喉元に牙が食い込む。
イルカの視界を覆うのは、真っ赤に色付く紅葉だけだった。
了
- 2013/01/26 (土) 01:37
- 短編